職人プロフィール
赤羽 可行(あかはね よしゆき)
糸魚川翡翠職人として原石の調達から加工を行う。幼少期から信州の大自然に囲まれて育ったことから、アウトドア全般に精通。刀や狩猟のほか、山岳写真家としても活躍。数々の賞を受賞。
沿革
糸魚川翡翠との出会い
私と糸魚川翡翠との出会いは、もう50年以上も前のことになります。
高校の時、ふとしたきっかけで糸魚川を訪れた際、海岸の波打ち際でたくさんの人が楽しそうに石拾いをしているのを見かけました。何を拾っているのかと気になって覗いてみると、薄緑色の石を探していて、見つけた人はとても喜んでいたのです。その笑顔につられるように、私も石探しに加わり、気付けば日暮れまで石を探していました。
偶然にもその時、親指大の綺麗な薄緑色の石と出会いました。見た目の美しさだけでなく、小さいのに他の石とは違ってずっしりと重いのです。夕暮れ時のかすかな光に透かして見れば、石の奥で何かが光っていました。ひんやりとして肌に馴染む石の感触は、何とも言えない魅力がありました。
収集するのが好きだった私は、その石を家に持ち帰りました。後からその石が偶然にも貴重な糸魚川翡翠であることがわかった時は、胸の奥がじんわりと温かくなるような嬉しさがこみ上げてきました。手の平にのせて石の手触りを感じながら、石を眺めていたものです。その石は、今でも手元に置いてあります。
その後、糸魚川翡翠との印象的な再会が訪れました。
これも全くの偶然なのですが、ある日父が母に翡翠の指輪をプレゼントしていたのです。磨き上げられた宝飾品としての翡翠の美しさを見て、翡翠は宝石なのだと驚きました。指輪をもらって嬉しそうな母の笑顔に、贈り物はこんなにも喜ばれるのだなと思ったものです。
自分が良いなと思っていた石は、こんなにも綺麗で、人を喜ばせることができるものなのだと思ったのが、糸魚川翡翠を本格的に集めたいと思ったきっかけなのかもしれません。
糸魚川翡翠コレクターとして全国で買い付け開始
当時すでに糸魚川翡翠の産出地は国の天然記念物に指定されていました(※1)。集めようにも自力で採掘することは不可能だったので、海岸に打ち上げられた翡翠を求めて、ヒスイ海岸に拾いに行ったり、糸魚川の翡翠屋さんを歩き回ったりして、少しずつ翡翠の事を学んでいきました。
1950~60年代には、多くの翡翠店が全国に存在していました。もちろん、特に足しげく通ったのは糸魚川です。自分が気に入った糸魚川翡翠に出会いたいと思い、何度も通い続けていると、自然とお店の方と顔見知りになっていきました。地元の業者さんの間にも私の顔が知られてきたのか「ここに良い翡翠があるらしいよ」「あそこは良い原石が置いてあるよ」と教えていただくようになりました。時には、庭石として翡翠の原石を飾っていた個人の方から直接お取引きの連絡をいただくこともありました。みなさん、素人だった私にとても親切に詳しく糸魚川翡翠のことを教えてくれました。
当時は運送業に関わっており、幸いにも移動や大型の荷物を運搬することに対しての知識もあったので、全国どこでも直接出向いて糸魚川翡翠原石を買い集めるようになりました。
約10年近く糸魚川翡翠に触れて買い集めていると、自然と石の良し悪しが解るようになっていきます。現地の方とたくさんの原石に触れていくうちに、目が養われていきました。
※1 文化庁により天然記念物に指定(1957年2月22日)
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/864
初めての加工は失敗
現在の作品づくりに繋がる記憶で、一番思い出に残っている出来事があります。それは、初めて自分の手で糸魚川翡翠を加工できないかとチャレンジした時のことです。
当時から私は自然の中で過ごすことが大好きでした。人里離れた山奥へ行き、キャンプや写真を撮ったりすることを楽しんでいました。山奥で長時間過ごすためには、護身装備としてナイフは必需品です。市販で良いものもたくさんありますが、自分の手に馴染むものは自分で作ろうと思い、糸魚川翡翠でナイフの柄を作ることはできないだろうかと考え付いたのです。
思い付いたらすぐ行動しないと気が済まない性格なので、本格的な研磨機を購入してチャレンジしました。手先は器用な方でしたので「きっと出来るだろう」と思い込んでいたのです。けれど現実は厳しく、糸魚川翡翠は想像以上に硬く、思い通りに削れてくれませんでした。道具の使い方も悪かったのでしょう。何度チャレンジしても納得のいくものが出来ませんでした。現代の道具があってもこれなのです。縄文人は一体どれだけの労力をかけて糸魚川翡翠を磨いていたのかと、驚きとともにその技術力に舌を巻きました。
そうやって失敗して挫折したからこそ、心から真摯に技術を磨いて糸魚川翡翠に向き合わないといけないと、気持ちが新たに引き締まったのです。
定年退職を転機に工房を建てる
加工技術を磨くためには、それなりの道具を用意し、加工に没頭する場所や時間が必要になります。思い切って永年勤務していた会社の退職を契機に、自宅敷地に糸魚川翡翠の制作工房を新たに造りました。
加工に必要な工作機械については収集仲間から教えてもらい、自分で探し求めて揃えました。ひとつひとつが特殊な工作機械なので、入手にも苦労しました。すべてを整えるには、5年ほど時間がかかる長期戦でした。けれど、最初の加工で手痛い失敗をしていたからこそ、心折れることはありませんでした。それぐらい覚悟がいることに挑戦しているのだと、むしろワクワクしていました。工房を整える期間は、新潟や富山で活動されている様々な翡翠工房を訪れて加工について学び、貴重な経験を積ませていただきました。本当に感謝です。この時の経験がなければ、今の私はありえません。
最初の作業は原石をスライスした翡翠板から、材料をカットするものでした。それだけでも覚えるのに時間がかかり、今なお一番悩む作業です。なぜなら、石目は同じものがひとつとして存在しないからです。糸魚川翡翠らしい石の表情をどうやって作品に落とし込んでいくか、どこを活かしどこを切り落とすか。何度も迷い、決断して、また悩むという繰り返しです。けれど悩むからこそ、良いものができあがった時の感動も大きなものでした。
その当時の気持ちを忘れずに、毎日工房へ赴き、糸魚川翡翠と向き合っています。
国を越えて糸魚川翡翠を発信する活動へ
今でも月に何回か糸魚川方面に出かけ、地域の収集家の皆様と情報交換をしています。おかげさまで全国から糸魚川翡翠に関する様々な情報が、私の手元に届くようになりました。
最近では自治体の教育委員会様や、博物館とのつながりもできました。さらに海外からご注文いただくようにもなってきました。インターネットの影響力の大きさを感じます。以前は自分の作品を海外の方が手に取っていただくことなど、想像すら出来ませんでした。
身近な人に加工した作品を贈ると、想像以上に喜んでもらえることが多くありました。やはり日本人だからでしょうか、縄文人から糸魚川翡翠に魅力を感じる何かが受け継がれているのかなと思います。
職人の思い
糸魚川翡翠の魅力
糸魚川翡翠の魅力を語ろうと思うと、その魅力は私にとっては当たり前のことなので、どこから話していいのか分からなくなってしまいます。美しさはもちろんのこと、その歴史的背景や意味合いなども知れば知るほど魅力がある石です。
時折、「そんなに集めている理由は、糸魚川翡翠には特別な力があるからですか?」とご質問をいただくことがあるのですが、正直に答えますと私は単なる職人なので「特別な力があるかどうかは、わからない」です。
それでも、糸魚川翡翠を持っていたことで良かったと思うのは「助けられたな」と思う時が何度もありました。
これまでの人生で、大きな決断を迫られた時は何度となく訪れました。大げさでなく、命の危険が伴う決断を迫られた時もあります。そんなときに胸に下げているお気に入りの糸魚川翡翠を握ると、すっと頭がクリアになりました。日常的に触っている手触りの心地よさが、普段の冷静さを取り戻すきっかけになっていたのかもしれません。
ある日のエピソードです。雪山登山を楽しんでいた時に、ホワイトアウトに巻き込まれたことがあります。1人だったため、視界が真っ白に埋め尽くされて、どこに進んでいいのか分からなくなりました。頼る人もおらず、焦り、どうしようもなくその場に座り込みました。困った時の習慣になっていたのかもしれませんが、いつも首から下げているお気に入りの糸魚川翡翠を握りしめました。すると、すっと冷静になって周囲を改めて見回すことができました。しばらくすると視界が開け、その瞬間に山小屋が見えました。単なる偶然かもしれませんが、その時、糸魚川翡翠に助けられたなと思いました。冷静になることなく慌てて動いていたら、さらにひどい状態になっていたのかもしれません。
自分が本当に困って焦ったときに、糸魚川翡翠の滑らかな手触りと光が、本来の自分を取り戻すきっかけを与えてくれるような気がしてなりません。糸魚川翡翠は私にとってはなくてはならない石です。生きるための守り石といってもいい存在です。きっと縄文人も同じ思いであったのかもしれません。
今後の展望
私は多くの糸魚川翡翠職人の方々とのご縁に恵まれ、磨く技術と共に、古くから使われてきた道具等を受け継ぐことができました。加工を始めた時期が良かったのかもしれません。工房を充実させていく過程でネットショップも開設することができ、本当に恵まれた環境だと感謝しかありません。だからこそ、この糸魚川翡翠文化をもっと多くの方に伝えて、文化を継承させていかなければいけないと思っています。
日本には、国が誇るべき歴史と、受け継がれた原石の研磨技術があります。現代の私たちは知らずに当たり前のものとして受け取っていますが、何千年も前の技術が現在に伝わっている国は、そう多くはありません。技術を継承し、糸魚川翡翠を通して多くの方に日本の文化と歴史を知っていただけたら、本当に嬉しいことです。
お客様への思い
私の原点は、やはり父が母に糸魚川翡翠の指輪を贈った時の、母の嬉しそうな笑顔です。
お客様にも、そのときの母のように、その人にぴったりの品を届けて、笑顔になっていただきたいと思います。糸魚川翡翠を身に着けた人がより輝けるように、笑顔でありますようにと願いを込めて今日も作品に向き合っております。
糸魚川翡翠をお求めになりたい、身につけたいと考えていらっしゃる方は、ぜひ一度手に取って触れてみてください。
作品ができるまで
勾玉を作る場合の流れをご紹介します。
1. 糸魚川を中心に全国から原石を調達
長年培ってきた人脈から情報が入る度に、直接現地を訪問し原石を査定しています。糸魚川翡翠の採取地が天然記念物に指定される前に収集された、個人収集家の方々から連絡が入ることもあります。さらに糸魚川で年に数回開催される翡翠市にも毎回足を運び、様々な情報を集めて糸魚川翡翠の原石調達を行っています。
2. 原石を板状に切断
巨大な原石を大割り機で切断し、16mmほどの厚みの板状に加工していきます。
ひすい輝石が原石の中でどのような広がりをしているのかは、切ってみなければわかりません。良質の部分をいかに良い状態で切り出すために、上下・左右から何回にも分けて少しずつ切断していきます。
3. ブロック分け
原石を切り出した板を、扱いやすいように350mm四方の形に切断機でブロック分けをします。(350×350×16mmの板状)
4. デザインの下書き
翡翠の色味やひすい輝石の発色の仕方などから、どこを活かしてどこを削るかを決定します。石の活かしたい部分に直接勾玉の形を下書きし、切り出す形をイメージします。クラック(※1)の入り具合や形をみて、勾玉から違う作品用に変更することもあります。
※クラックとは翡翠に見えるヒビのことです。高圧力の地底から地上に出てくる過程で体積が急激に変化することで、内部にヒビが入ります。 翡翠の形成によるもので、実はひすい輝石の純度が高い良質な翡翠ほどはっきりとヒビが入りやすいともいわれています。
5. 切り出し
書き込んだ下書きを参考に、まず勾玉の大きさよりも少し大きめの長方形の形に小型の切断機で切り出していきます。
6. 研磨
ここからはより精密な作業になっていきます。石の硬さや作る勾玉の大きさにより、様々な道具を駆使して、周りから少しずつ勾玉の独特な形を削り出していきます。外側のカーブ、内側の尾の部分、頭の丸みなどは、何度作っても神経を張る作業です。ほんの少しの違いで仕上がりが全く違うので、手で磨きながら石の艶も出していきます。
7. 仕上げ
形を削り出した勾玉に穴をあけ、仕上げ磨きをします。
どこにどの程度の穴をあけるのかで、勾玉のもつ表情が変わります。最後の工程が一番緊張する瞬間です。
事例紹介
石の表情を見て作品をつくる
翡翠は自然の産物なので、同じように見えてもその表情はそれぞれ違い、個性あふれる存在です。こたきでは、翡翠の模様やクラックをその石が持つ独特の個性と捉え、その部分が輝く作品にすることを心掛けています。
制作のこだわり 事例紹介
こたきのこだわりが伝わるペンダントトップの事例を紹介します。薄い青色の糸魚川翡翠で、黒い部分は角閃石です。
何かのきっかけで異なる2種類の岩石が隣り合い、長い時間をかけて結び付き1つの石として形成されました。なかなか巡り合えない石の表情です。
宝飾品として扱う翡翠の世界では、この角閃石の部分は本来なら切り落としてしまいます。翡翠のみで制作した作品の方が、価値が上がり高値で販売することができるからです。しかし、この石を見た時に面白いなと思い、境目を活かした作品にできないだろうかと考え、より明確に境目が際立つよう斜めのカットと磨きを入れ、デザインしました。
角閃石を入れることで、価値は下がります。ですが、自然が造り出した美しさを削り落としてしまうのは、どうしても抵抗がありました。2つの石が隣り合うことも珍しく、かつここまで明確に境目がくっきりと綺麗に分かるものは滅多にないからです。
また安価になることで、糸魚川翡翠を持ちたいけれどもなかなか手が出ず躊躇されているお客様にも喜んでいただけるのではと思い、作成いたしました。
光を透過した時に見える、内部で2つの岩石が混ざり合う姿が大変魅力的でした。このような自然が造り出す糸魚川翡翠の個性をお客様に楽しんでいただける様、これからも作品を届けていきたいと思います。