翡翠の知識

1.糸魚川翡翠の形成

通常、岩石が変成される地下20kmから30kmは、温度が600℃前後の高温環境です。しかし、大陸プレートと海洋プレートがぶつかり合う「沈み込み帯」では「圧力は高いが温度が低い」という特殊な環境が生み出されます。圧力が約1万気圧という高さでありながらも、温度は200℃~300℃という低温が保たれている奇跡のような環境です。この高圧低温の環境において、翡翠(ジェダイト※)は形成されます。

糸魚川翡翠はこのようなフォッサマグナ特殊な環境下でゆっくりと形成されました。限られた地形環境でのみ形成され、地表に露出される場所が極めて少ないことから、希少性の高い石です。

※翡翠(ジェダイト)の定義…ひすい輝石を85%以上含む岩石のこと。一般的には85%以上含む岩石のみが宝石とされる。ネフライトは全く異なる環境下で形成される。

日本を縦断する
「フォッサマグナ」
(大きな溝)

日本列島の真ん中には、大地のなかに「大きな溝」があります。
ユーラシア大陸から日本列島の大地が離れるプレートテクトニクスの過程で、何かしらの圧力がかかり2つに裂けました。その裂け目のことを「フォッサマグナ」(大きな溝)と言います。

 

この「溝」を境目に、日本は東西に分かれています。「溝」というと細い切れ目を想像するかもしれませんが、実際はかなり幅がある大規模なものです。西側は新潟県の糸魚川から長野県・山梨県・静岡県を縦断する糸魚川・静岡構造線。東側は千葉県・埼玉県・群馬県・新潟県を縦断する柏崎・千葉構造線です。
日本列島をも割る巨大な大地の動きによって沈み込んだ部分の上に、長い年月をかけて新しい地層が積みあがっていきます。この新しい地層のエリアがフォッサマグナです。フォッサマグナの地質が2500万年前の新生代のものであるのに対し、これを挟む東西の地質は5億年以上前の中・古生代のものです。

フォッサマグナ

フォッサマグナの圧縮によってできた断層にマグマが貫入し、地下深くにある鉱物や翡翠を含む蛇紋岩が地表に上がりやすかったと考えられます。そのため、フォッサマグナの境目に位置する糸魚川市では、奇岩・奇石をはじめ、珍しい多くの鉱物を見ることができます。
大地の裂け目であるフォッサマグナの真上に位置する糸魚川の地質構造は、世界でも特異な存在です。その裂け目から、奇跡のような偶然が幾重にもかさなりあい、糸魚川翡翠は形成されました。厳しい環境下でありながら、活発な火山活動がもたらしてくれる自然の恵み豊かな糸魚川。世界に類を見ない糸魚川の地形は、2009年に日本初の世界ジオパークに認定されました。

ネフライトとの
形成・産地の違い

ジェード(ヒスイ)はその歴史的背景から、ジェダイト(硬玉)とネフライト(軟玉)の2種類が現在の市場に流通しています。
世界中をみてもジェダイトは限られた場所でしか産出されません。代表的な産出場所は、ミャンマーのカチン州・中南米のグアテマラ。そして、日本の糸魚川です。
一方ネフライトはジェダイトが形成される半分の低圧力で、400℃~500℃程度の高温度帯で形成される角閃石です。角閃石は世界中で形成が可能な岩石で、産出量も豊富にあります。代表的な産出場所は、ロシアのシベリア地方・ニュージーランド・中国・台湾、そのほか中東やアフリカ大陸など、たくさんの場所で産出されます。

ジェダイト(硬玉)とネフライト(軟玉)
jadeite(ジェダイト)とnephrite(ネフライト)の産出地の違い

古代、人々はきれいな緑の石を地域によって「ジェード」や「ネフライト」と名付け、混同していました。18世紀後半になり、ジェダイトとネフライトが全く別の鉱物であることがわかります。その後も市場ではこの2つの石を同じ「ジェード(ヒスイ)」として取引し続けました。現在でもネフライトを「翡翠」と表記して安価で取引されていることも多く、外国産の翡翠は、産出量の多い角閃石のネフライトである場合があります。

国産翡翠が復活する昭和よりも前、明治期に中国からの大量のネフライトが輸入されました。それをきっかけにして、軟らかい角閃石であるネフライトを『軟玉』、硬いジェダイトを『硬玉』として、混同しないように国内で名称をつけ区別していました。明治期の国内アンティーク品にネフライト製が多く見られる理由は、歴史の中にあるのです。

参考文献・URL

2.世界のヒスイ・ジェード文化

ジェダイトよりも産出量が多く、希少価値が低いとされるネフライトですが、実はネフライトも古代から世界中で価値ある・特別な意味を持つ石として扱われてきました。ここでは中国、ミャンマー、中央アメリカ、ニュージーランドの4つの地域において、ヒスイ(ジェード)がどのような意味を持ち、どのように愛されてきたのかをご紹介します。

中国

中国はネフライト(軟玉『白玉』)とジェダイト(硬玉)両方の歴史を持っています。紀元前1600年頃より、世界最古の宝石(玉)としてネフライトを扱ってから、約1200年間はネフライト文化が主流でした。17世紀後半(清王朝)の時代以降に、ジェダイト(硬玉)の存在が明らかになります。

中国のネフライト文化

1万年前の石器時代

中国の東北部で、透明度が高く硬い石を道具として扱う文化が発生しました。

紀元前1600年ごろ

黄河流域を支配した中国最古の殷王朝で、ネフライトを「自然のエネルギーを宿している霊石」として崇めるようになります。

紀元前400年以降

春秋戦国時代、中国の西域(現在の新疆ウイグル自治区)で純白のネフライトが発見されました。
この時代に活躍した思想家・哲学者であり、儒家の始祖でもある孔子は、この純白のネフライトを「玉」と名付けました。「天」と「人」と「地」の三つの世界をつなぐものとして、君子(徳の高い王)が持つのにふさわしいものとして白玉を称えたのです。玉を持つ者は、純白の玉の美しさと透明度の高さによって、君子として持ち得る五つの徳(仁・義・礼・智・信の心)が高まると信じられたそうです。

「和田玉」と呼ばれるネフライト
中国新疆ウイグル自治区で採取される「和田玉」と呼ばれるネフライト。
出典:ja.wikipedia

この頃から中国領土を支配した各王朝は、ネフライトの産地を領土として管理と採掘を執り行い、宮中に専門の玉器工場を設置しました。加工専門の職人を育成することに力を注ぎ、玉を使った装飾文化が花開きました。
加工しやすいネフライトの性質を活かし、緻密な工芸品や彫刻、宝飾品が数多く制作されました。白玉が最高位の宝玉である概念が、時代を経ても変わらない価値観として中国の中で根付いていきました。玉を持つことは権威と結びつき、最高のステータスや永遠の命までもが手に入ると、人々は信じていました。「史記」「韓非子」などの文献にも玉の描写は多く見られ、逸話も数限りなく存在します。完璧(壁=玉)の語源にもなった宝玉「和氏の壁」も、純白のネフライト製ではないかと考えられています。
さらに純白のネフライトは弔いの場にも使われました。当時の人々はネフライトの小片を金属糸などで繋いだ玉衣で貴人の遺体を覆いました。白玉には「死者をも蘇らせる生命の再生をもたらす力がある」と考えられていたのです。
時代を経て王朝が幾度となく変わっても、純白のネフライトの価値は揺るぎないものでした。小型の装飾品だけでなく、精密な彫刻を施した大型な芸術品など、ネフライトは中国全土で幅広く使われていきました。

中国のジェダイト文化

ジェダイトとの出会い

17世紀後半、ビルマ(現在のミャンマー)との交易をしていた中国人が、ビルマ産のジェダイトと出会いました。今までに見たこともない豊かな色彩をもったジェダイトに魅了され、大量に中国本土に持ち込みました。新しい玉石は、それまでのネフライト(白玉)との違いを明らかにするため、水辺に棲む小鳥のカワセミ(翡翠) の名をとって「翡翠玉」と呼ばれるようになりました。カワセミの緑色の羽、赤い腹部、鮮やかな青の背毛が、ジェダイトの緑・赤・青という特徴的な色と共通していたので、この名が自然とつけられたのでしょう。

翡翠(ジェダイト)の由来となったカワセミ
翡翠(ジェダイト)の由来となったカワセミ

カワセミは古代から神聖な鳥として崇められていました。光のように直線的に水面に降り立つ特徴的な飛び方が、まるで天から遣わされた者のようだと神聖視されていました。カワセミの名で呼ばれたジェダイトも、神聖な石として人々の心に刻み込まれていきました。

ネフライトに匹敵する人気となったジェダイト

特に清王朝では、鮮やかな透明度の高いグリーンが好まれました。宮廷の后妃たちに愛好され、西太后がジェダイトを特に好んだことは有名です。

全身にジェダイトの宝石を身に着ける西太后
全身にジェダイトの宝石を身に着ける西太后
出典:ja.wikipedia

何千年もの間培われたネフライトの加工技術が追い風となり、ジェダイトの発見に伴い、中国でのジェード(ヒスイ)文化はさらに発展しました。
広く民衆にもジェダイトが普及した近代の中国では、富裕層は正妻にジェダイトを贈り、第2夫人にはダイヤモンドを贈る風習があったそうです。ジェダイトの価値観が伺える風習の1つです。
2008年の北京オリンピックでは、メダルにヒスイの装飾が用いられました。

メダル
古代中国の翡翠の玉環がモチーフになった。出典:JOC

中国ではジェダイトは産出されていませんが、現在でもミャンマー産のジェダイトを輸入し、加工・販売をしています。

ミャンマー

翡翠の産出国として、よく知られているミャンマーですが、独自の文化はなく、翡翠産業を通して中国と密接に繋がっています。

ジェダイト(硬玉)が国内で発見

17世紀後半、現地に住み着いた華僑(中国人)の人々によって、ジェダイトが発見されたことをきっかけに、ジェダイトの本格的な採掘が始まりました。

中国との交易によるジェダイト産業の発展

19世紀後半から、インド帝国の属州という扱いで英国に植民地支配を受けましたが、イギリス人はカチン州のジェダイトには興味を示しませんでした。代わりに、すでにネフライト文化が発展していた華僑の人々が、採掘から運搬までの一切の権利を独占し販売を行っていました。
1948年にビルマ連邦共和国として独立後、1963年にはビルマ政府がジェダイトの採掘から販売までを国有化しました。その後、毎年外国人向けに、政府主催となってジェダイトの入札を行いましたが、1993年からは専売公社の運営に変わり、年2回のオークションが開かれています。
ミャンマーの輸出産業においてジェード(ヒスイ)は重要な役割を占めています。中国との経済的な結びつきも強く、ミャンマー産のジェードはほぼ中国の市場向けに販売されています。

中央アメリカ

メソアメリカ(中米)文明とは、北米大陸のメキシコ高原からユカタン半島一帯に存在した古代文明の総称です。時代によってオルメカ(紀元前1150~前800年ごろ)・マヤ(紀元前後から16世紀にかけて)・アステカ(1428年頃から1521年の約95年間)の3つの文化が代表とされる古代文明です。
石器を主要利器とした、極めて洗練された「石器の都市文明」を築いており、生活のあらゆる面で石を使用していたことが遺跡から確認されています。

死者の魂を再生・復活させる石として

メソアメリカ文明ではネフライトとジェダイトの両方を使用していた形跡があり、宗教的・装飾的な工芸文化をうかがわせる出土品が多数発見されています。ジェード(ヒスイ)は死者の魂を再生・復活させる力がある石として考えられており、死者の埋葬品としてよく扱われていました。首飾りや腕輪はもちろんのこと、ジェード(ヒスイ)製のマスク、両手にもヒスイを握らせ、口の中にもヒスイを含ませていました。死者の魂が迷わずに天国に向かうためのまじないの意味もあったのではないかと、推測されています。

死者の埋葬品として使われたジェード製のマスク
死者の埋葬品として使われたジェード製のマスク

病気を治し、痛みを和らげる石として

16世紀になるとヨーロッパからの新大陸開拓民たちが天然痘などの伝染病を持ち込んだために、メソアメリカ文明は滅びを迎えます。
現在のペルー周辺で、開拓民として新大陸に到着したスペイン人たちが出会ったインディオたちは、腰のあたりに扁平な緑色の石を吊り下げていました。ジェード(ヒスイ)を装飾品としてではなく、痛みを和らげる温石として使っていたのです。インディオたちは経験から、温めたジェードを患部に当てると痛みが和らぐことを学んでいました。まるで薬のように、ジェードを肌身離さず腰に吊り下げていたそうです。
後にスペイン人がそれらを本国に持ち帰り「腰につける石」と表現されたものがジェードの語源になったといわれています。

ニュージーランド

先祖や自然との繋がりを意味するモチーフとして

14世紀以降、イギリス入植以前にニュージーランドに住んでいた先住民のマオリ族によって、ネフライトを含む緑色の石を加工する文化が生まれました。マオリ語では「pounamu(ポウナム)=緑の石」と名付けられ、古くから神聖なるものとしてニュージーランドで扱われました。
マオリ族は文字を持たない民族です。そのためポウナムにさまざまなシンボルを彫り込み、聖なるタオンガ(宝)として大切に身につけました。タオンガが象徴するのは強さと永劫であり、首長の地位にある者が身に着けたと言われています。また争いを静めるために、和平の証として互いのタオンガを交換することもあったそうです。
タオンガは世代から世代へと受け継がれ、持ち主が変わる度に石に宿るマナ(威信)が増していく、と信じられています。そのためポウナムは大切な誰かへの贈り物として扱う価値観が残っています。
ポウナムには特徴的なデザインがあり、先祖や自然とのつながりを意味しています。強さや繁栄、愛情と調和など、マオリ族に根付いている感性を現代に伝えています。

※1997年以降、法改正や権利などの事情により、ニュージーランド産のネフライトは発掘が禁止されています。現在販売されているグリーン・ストーンは、全て法令以前に採掘された貴重なものです。

3.日本屈指の翡翠産地 糸魚川

糸魚川翡翠工房こたきが扱う翡翠はどこで採れたものか、そのふるさとをご紹介します。

小滝川ヒスイ峡
(小滝川硬玉産地)

「小滝川ヒスイ峡」とも呼ばれる「小滝川硬玉産地」は、長野県北安曇郡から新潟県糸魚川市を流れる姫川の支流である小滝川の上流沿岸一帯を指します。自然公園にも指定されている一帯は、飛騨山脈の北部に位置する明星山の峡谷でもあり、堆積岩の石灰が押し固まり、切り立った岩肌がむき出しになっています。自然の雄大さや美しさを感じることのできる、まさに秘境です。

小滝川ヒスイ峡の写真
小滝川ヒスイ峡の写真

この一帯は昭和31年に国の天然記念物に指定され、翡翠を含む、すべての岩石が採取禁止とされています。(※1)
小滝川ヒスイ峡は、日本各地の遺跡から出土する翡翠製品の由来となった、歴史的に重要な発見場所でもあり、また糸魚川が「翡翠のふるさと」として認知されることになる、始まりの場所でもあります。

アクセス

  • 車の場合
    糸魚川ICから国道148号・県道483号経由で30分
  • 電車の場合
    JR小滝駅から徒歩60分

小滝川のエピソード

~歴史の狭間に隠された翡翠~

小滝川ヒスイ峡は、昭和14年(1939年)に東北大学教授・河野義礼(かわのよしのり)先生による現地調査によって、小滝川の河原に翡翠の岩塊が多数あることが科学的に確認されました。
この調査が行われたきっかけは、糸魚川市の偉人であり、童謡「春よ来い」の作詞者でもある相馬御風(そうまぎょふう)氏の一言です。一流の文学者でもある相馬氏は、地元である糸魚川に伝わる奴奈川姫伝説から「もしかしたら糸魚川には翡翠の産地があるのでは」と推測し、そのことが糸魚川翡翠の発見につながりました。しかし、この奇跡のような発見を相馬氏は公に発表することはなく、知人にも話さなかったと言います。古代から珍重されてきた翡翠が糸魚川にあるという発見は喜びをもたらしたはずなのに、相馬氏は黙して語りませんでした。
なぜ相馬氏は沈黙を保ったのでしょうか。
相馬氏の口を閉ざさせたのは、戦中戦後の混乱の時代が原因だったのではないかと考えられています。戦争中に公にすれば、戦意高揚の道具として糸魚川翡翠が使われてしまうかもしれません。また、戦後の混乱した世の中では、価値の高い糸魚川翡翠が進駐軍に没収されたり盗掘されたりする恐れがあります。そのような事態から、この美しい翡翠とヒスイ峡の存在を黙すことで守ろうとしたのかもしれません。
翡翠は歴史の中で幾度となく姿を現し、そして突然消える時期がありました。
はっきりとした理由もなく、突然姿を消すのです。
もしかしたら相馬氏のように、糸魚川翡翠の価値を理解できる人の手に届けるため、あるいは守るために、敢えて語らなかった人々の存在が歴史の中に埋もれているのかもしれません。

青海川ヒスイ峡
(青海川硬玉産地)

新潟県糸魚川市を流れる青海川の上流・黒姫山の麓に青海川ヒスイ峡(別名:青海川硬玉産地)はあります。青海川上流の河床には蛇紋岩の大露頭がみられ、これに沿って糸魚川翡翠の原石が点在しています。良質の翡翠が形成される場所には、必ずといっていいほど蛇紋岩の存在が確認されています。青海川ヒスイ峡は、小滝川ヒスイ峡と共に学術的にもきわめて価値の高い場所です。
この青海川産の翡翠の特徴は、緑色のものや美しいラベンダー色をしており、縞状の構造が見られ、小滝川産のものとは違った表情をみせてくれます。

青海川ヒスイ峡の写真
青海川ヒスイ峡の写真

出典:国土地理院ウェブサイト(https://www.web-gis.jp/GS_Kigan100/html/Kigan100_033.html

昭和32年に国の天然記念物に指定され、翡翠を含む、すべての岩石が採取禁止されています。(※2)

アクセス

親不知ICから国道8号、県道155号経由 車で30分 (中型バスまで通行可)

ヒスイ海岸
(宮崎・境海岸)

新潟県との県境である富山県朝日町のヒスイ海岸は、幅100m・東西約4kmに渡って広がる砂利浜の海岸です。美しいエメラルドグリーンの自然海岸で「日本の渚百選」「快水浴場百選」に選ばれています。
国内ではじめて古墳時代の勾玉工房跡「浜山玉つくり遺跡」が朝日町で発見されました。この遺跡が日本の翡翠文化を解き明かすスタート地点となり、発掘調査団がこの海岸一帯を「ヒスイ海岸」と命名しました。
新潟県の親不知海岸から朝日町のヒスイ海岸(宮崎海岸)までの一帯は、糸魚川翡翠の原石が拾える海岸として、鉱物ファン・翡翠ファンのあこがれの地です。海岸一帯の石群は宝石のように、日本海に沈む夕日にキラキラと反射します。

ヒスイ海岸の写真
ヒスイ海岸の写真

アクセス

あいの風とやま鉄道越中宮崎駅から徒歩約1分

北陸自動車道朝日ICから車で約10分

※1 1956年6月29日天然記念物指定
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/863

※2 1957年2月22日天然記念物指定
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/864

4.日本神話と翡翠

世界最古のジェダイト文化を持つ日本。その歴史的な背景から、翡翠は日本の国石にも指定されています。
日本最古の書物である「古事記」で語られる神話の世界や、最古の歌集「万葉集」では、糸魚川一帯を支配していた祭祀女王・奴奈川姫(ぬなかわひめ)のエピソードが語られます。その内容をご紹介します。

奴奈川姫(ぬなかわひめ)は、日本神話に登場する女神です。

奴奈川姫とその子(建御名方命)の像(新潟県糸魚川市)
奴奈川姫とその子(建御名方命)の像(新潟県糸魚川市)

古事記に残る 奴奈川姫
の気高さ

奴奈川姫に求婚した大国主命との神語り

【原文】
この八千矛(やちほこ)の神、高志(こし)の國の沼河比賣(ぬなかはひめ)を婚(よば)はむとして幸でます時に、その沼河比賣の家に到りて歌よみしたまひしく、
・・・・(中略)
ここにその沼河日賣、いまだ戸を開かずて内より歌よみしたまひしく、
・・・・(中略) 
かれその夜は合はさずて、明日の夜御合したまひき。

(古事記 上(かみ)つ巻〔八千矛の神の歌物語〕より)

【超訳】
大国主命(=八千矛神)は奴奈川姫に求婚しようとして高志の国へ赴いた時、彼女の家の前で高らかに求婚の歌を詠い上げた。

「私は日本中を訪ねながら、自分にふさわしい妻を探していた。遠い遠い高志の国に、賢く美しい姫がいると聞いて、ここまで会いに来た。まだ太刀も解かず、上着すらも脱いでいない。あなたの家の前でこうして戸を叩いているが、いまだに戸が開かないのは姫が眠っているからだろうか。真夜中に鳴く鵺の鳴き声が聞こえてから、既に雉や鶏が夜明けを告げようとしている。ああ、忌々しい。いっそのこと鳥たちを打ち叩いて殺してしまおうか」

その時、扉の中から戸を開けずに奴奈川姫はこう返事を詠った。

「大国主命よ。私はかよわい女なので渚の鳥のように心さびしいのです。今は自由に水の上を泳いでいても、そのうちにあなたの鳥になりましょう。だからどうぞそれまで死なず、命健やかに末永くお過ごしくださいませ。」
「山に太陽が落ちれば、真っ暗な夜が参ります。そして健やかな朝がまた巡ってくるのは道理です。朝のお日様のように、にこやかにもう一度私のところを訪れてください。そうしたら、私の白い腕で、胸で、あなたを優しく抱きとめて、手をつないで体を休めて共に眠りましょう。だからその時まで、そんな辛そうな思いをなさらないで。大国主命よ」

そして姫の言葉通り、翌日の夜に二神はお会いして結婚しました。

(古事記 上巻 八千矛の神の歌物語より)

【解説】
大国主命は、日本神話に登場する素戔嗚(すさのお)の子孫で心優しい神様です。出雲の国づくりを成し遂げたことと、各地に多く残る恋愛伝説から、五穀豊穣と縁結びの神様として大変有名です。

出雲神社にある大国主命の像
出雲神社にある大国主命の像
出典:ja.wikipedia

複数の名を持つ神様としても有名で、八千矛の神という呼び名は大国主命の別名にあたります。多くの神が存在する日本神話の中でも、これほど別名が存在する神様は他に存在しません。名前の多さは、大国主命が持っていた強力な権力を示唆します。
「八千矛」はそのまま八千の矛を指し、「武力や軍事力」を象徴しています。

古代日本では、女性に婚姻相手を選択する自由はなく、自分よりも身分が上の男性が訪ねてきたら、その求婚を無条件で受け入れることが常識でした。出雲国の王であり、強大な軍事力を保持している大国主命からの求婚を拒絶することは、古代の感覚ではありえないことです。どんな状態で訪れようとも、すぐさま扉を開けて迎え入れるのが当たり前です。
しかし「古事記」の上巻に書かれている歌物語は、全く違います。

長旅をして高志の国を訪れた大国主命が、一晩中、奴奈川姫の家の前で扉が開くのを待っている様子が描かれています。「こんなに戸を叩いているのに開けてくれないのは、姫は眠っているのだろうか。朝を告げる鳥の声がうっとうしい」と大国主命がいら立っているのが伝わってきます。
大国の王が求婚に訪れているのに、一晩中外で待たせ、扉を開けない奴奈川姫。「明日、気分を落ち着かせてにこやかにお出でくださいませ」と大国主命をたしなめるように詠いかけ、次の日の約束をします。
大国主命は力で扉を開かせることもできましたが、奴奈川姫の言葉を聞き入れ、その提案通り二神は翌日に結ばれました。求婚の場面において、女性の願いを男性が聞き入れる、とても珍しい場面なのです。
相手が強大な存在であったとしても、冷静な対話を求めて大国主命のいらだちを歌で鎮めた奴奈川姫の聡明さが際立ちます。大国主命の歌で「賢く、とても麗しい姫よ」と詠いかけるに相応しい、気高く美しい奴奈川姫。本来ならば大国主命は求婚を諦めても良い場面です。けれど一晩中待たされても手に入れたいと願うほど、奴奈川姫は得がたく価値の高い存在であったことが解ります。

統治を目論んだ大国主命(もうひとつの考察)

別の角度から奴奈川姫の存在を考えると、現在の新潟県から福井県に渡る巨大な経済圏を作り上げていた「高志の國」を統治する女王の存在と一致します。高志の国は、当時からとても貴重な石であった翡翠が産出される土地でした。様々な豪族が各地方で力を持ち始めた時代背景からも、高志の国を手に入れたいと願う豪族は多かったことでしょう。
出雲国を統治する王・大国主命は、巨大な軍事力を背景に、高志の国に従属を要求したのではないでしょうか。大国主命の歌には、「太刀」「打ち止め(打ち殺す)」という穏やかでない言葉が詠い込まれています。そしてこの歌語りには多くの鳥が登場します。鳥は古事記の中で様々なことを告げる存在であり、何かの化身として扱われています。大国主命が打ち殺してしまいたいと考える存在は誰かと考えれば、この結婚に反対した高志の国の人々だったのではないでしょうか。
また、奴奈川姫が返歌で大国主命に「な死せたまひそ(死なないでください)」と訴えています。求婚の場面ではあまりにも不似合いな言葉です。死は、古事記では穢れの意味があります。穢れは不浄で忌み嫌われるものです。古代の人々にとって最も忌み嫌うものは、不幸な事態をもたらす存在です。「忌み嫌われる存在にあなたはならないでください」と奴奈川姫は詠いかけたのだとしたら、武力で攻め込まれることを避け、高志の国を守ろうとした統治者としての賢く気高い奴奈川姫の姿が見えてきます。

【古事記とは】
日本の神話と歴史を記した日本最古の古典。江戸時代に「国学」を推進させた本居宣長の研究により、神語りを伝える書として蘇った古文書のひとつ。 歴史書でもあるが、文学的な価値も非常に高く評価されている。現在研究が進んでいるが、まだ謎多き書物であり、奈良時代以前の日本を読み解くのに必須の研究資料でもある。

万葉集に残る
翡翠の女神 奴奈川姫

【原文】
沼名川の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾ひて 得し玉かも
あたらしき 君が  老ゆらくしも

(万葉集 13巻 3247 長歌 作者未詳)

【直訳】
沼名川の流れの底にある宝石のような玉。探し求めてやっと手に入れた大切な玉。それを拾い上げて大切に持っている玉。その玉のように大切なあなたが老いていくのは、本当に残念でならないことだ。

【超訳】
姫川の底にある翡翠のように美しいあなたの姿を、私が大切に持っているこの翡翠と同じように、永遠に私の傍で眺めていたいものだ。

【解説】
万葉集に詠まれたこの歌は「あなたの美しさが未来永劫続くように」と詠いかけています。「玉を探し求めてきた」という表現からも、翡翠を求めて沼名川を訪れた男性が愛しい女性に向けて詠んだ大和歌。翡翠のように美しい愛する妻に、永遠にその姿で居てほしいと願いを込めて詠ったものです。
『万葉集』には歌だけが載っており、誰が誰に向けて詠った歌なのかも、成立年代すらもはっきりとは分かりません。神代の時代の歌は、常に謎に満ちています。
謎を解き明かす手掛かりは、土地に根付いた名前です。糸魚川に残る地名から推測すると、沼名川は現在の姫川(長野県北安曇郡および新潟県糸魚川市を流れ日本海に注ぐ河川)を指し示しています。姫川の名前は「奴奈川姫」に由来するという伝承があり、「底なる玉」は糸魚川翡翠を指し示すと考えると、奴奈川姫はこの地の翡翠を支配する祭祀女王であったのではと、推測されています。

また『万葉集』と同時期に成立した『古事記』に書かれた、大国主命(おおくにぬしのみこと)が高志の国に住む奴奈川姫に求婚する神話と合わせて考えても、この歌は大国主命が奴奈川姫に贈った歌と考えられます。もしくは二神の結婚に反対し、大国主命と争った高志の国の神・根知彦(ねちひこ)が、愛しい奴奈川姫に向けて詠んだ歌とも考えられます。
詳細ははっきりとは解っていませんが、奴奈川姫が糸魚川に住む人々に崇拝される美しい女神であったことと、翡翠が当時から歌に詠み込まれるほど価値が高く、その歌が『万葉集』に選ばれるほど皆に愛されたことは、きっと確かなのでしょう。

【万葉集とは】
日本最古の歌集として名高い「万葉集」。
時の天皇から一般市民の防人まで、幅広い人々の心の声を集めた約5千首が収録されている歌集。その成り立ちや、誰が集めたものかなど、様々なことが実は良く解っていない。

元暦校本万葉集
元暦校本万葉集(複数ある万葉集のうちのひとつの書写本)
出典:ja.wikipedia

【「ぬなかわ」の意味】
古語の「ぬ」は宝玉を意味する言葉。「ぬなかわ」とは「玉の川」=「宝石で光り輝く川」を指し示す。姫川の上流から押し流された翡翠が、当時は姫川流域のいたるところで採れていたのではないかと推測させる名前。

奴奈川姫の神話がいざなう 翡翠の謎

奴奈川姫に訪れる悲劇

大国主命とめでたく結ばれた奴奈川姫。二人の間には建御名方命(たけみなかたのみこと)が生まれました。大国主命は高志の国に稲作を伝えた後、出雲国に勾玉の玉造の加工技術を持ち帰ったとされています。
奴奈川姫のその後については、古事記に記述はありません。各地に残る伝承を読み合わせると、奴奈川姫は大国主命と共に出雲国に向かったエピソードがあります。姫が出向いた出雲には、たくさんの大国主命の妻たちが待ちかまえていました。妻の数は明確ではありませんが、子どもの数は約180人も存在したと文書に書かれています。その事実に驚いた姫が高志の国へと戻った逸話があるのです。
逃げ帰った奴奈川姫を追いかけ、再び高志の国へと赴いた大国主命。その時、逃げ隠れる姫を見つけ出そうと糸魚川の「稚児が池」周辺に生えていた葦の草原へ火を放ち、その一帯を燃やし尽くして姫を探しました。けれど、奴奈川姫は姿を現すことはなく、大国主命は探すことを諦めて墓を建てて出雲に帰った、と伝えられています。
奴奈川姫はその時に命を落としたとも、地元の神に命を守られたとも、様々な逸話が地方の古文書に残っていますが、確かなことは分かっていません。

大国主命と奴奈川姫の子ども 建御名方命の国譲り

日本海側の一大国を築いた出雲にも、終わりがやってきます。大和国が出雲国に、国を譲れと申し出ます。「古事記」で有名な「国譲り」のエピソードです。
「国譲り」の交渉は難航し、最後は神同士の決闘へと発展していきます。
建御名方命は父・大国主命に、最強の武神・武御雷(タケミカヅチ)の神との戦いを命じられます。武闘派の建御名方命は建御雷に力競べを試みますが、敢えなく負けてしまいます。諏訪湖のほとりへと逃げ延びた建御名方命は、この地に永久に留まり決して外に出ないことを誓います。諏訪大社に祀られているのは、この建御名方命です。
母が奴奈川姫であることから、諏訪大社には翡翠を組み合わせたお守りなどがあります。

歴史から消えた翡翠の謎

高志の国は、翡翠という唯一無二の宝玉を産出する国です。そこに住んでいた民は、翡翠を加工する技術を長年磨きあげ続けていました。
出雲の玉造の技術は、大国主命によって高志の国の技術を伝えたとされていますが、それが本当だったかどうかは詳しく解っていません。しかし、出雲から多くの翡翠製の勾玉が出土していることからも、高志の国と出雲国は密接な繋がりがあったのでしょう。出雲から出土した翡翠製の様々な品は、糸魚川翡翠であると言われています。
出雲だけでなく、日本全国の遺跡から翡翠は出土し、その流通は日本国内だけでなく5世紀から6世紀にかけて朝鮮にも渡っていたことが確認されています。
日本全国のみならず、海外にまで輸出されていた糸魚川翡翠ですが、それ以降いったん歴史から姿を消し去ります。
なぜ翡翠が歴史の表舞台から姿を消してしまったのでしょうか。その謎はいまだ謎のままであり、どうして翡翠が消えてしまったのかは誰にも分かりません。そして、出雲国から逃げ帰った奴奈川姫が焼き払われた葦原から姿を現さず、そのまま消えてしまった伝承とリンクしているのは、全くの偶然なのでしょうか。
糸魚川の神社には、地方の神々に守られた奴奈川姫の伝説が多く残っています。姫を守った地方神のように、糸魚川の人々は何らかの理由で翡翠を権力者から隠さなくてはいけなくなったのかもしれません。
長い歴史の中で糸魚川翡翠は心ある人々に守られ続けていました。現在の私たちは翡翠を楽しめるのは、そんな糸魚川の人々のおかげなのかも知れません。

5.日本の国石・糸魚川翡翠

国石とは、その国家を象徴する石のことを指します。
多くの国が自国で産出する宝石を国石として指定しております。日本は2016年9月24に日本鉱物科学会が「翡翠(ひすい輝石およびひすい輝石岩)」を国石として選定しました。
翡翠は日本の大地から生まれた特別な石です。鉱物学・自然科学的な観点だけでなく、文化・芸術面においても重要な意味を持っています。その知識を未来において広く共有することを目的として、「国石」認定が行われました。

「国石」選定の条件

1. 日本で広く知られている国産の美しい石であること

「美しさ」の判定は個人差があるので、基準を設定するのはとても難しいものです。その基準を古来より「宝石として扱われてきた石」という項目で石を選定しました。国内産で宝石として扱われてきた石は、トパーズ、オパール、そして翡翠です。この3つの中で、宝石としての質、これまでの産出量、現在の産出量を合わせて比較したところ、翡翠が他の2種を圧倒的に上回っていることから、翡翠は日本産の宝石の中で筆頭する位置にあることが認められました。

2. 鉱物科学や地球科学の分野はもちろん、他の分野でも
世界的な重要性を持つこと

地球科学分野においての重要性は、何といっても翡翠が日本のような沈み込み帯でのみ形成される岩石であることです。翡翠には「プレートテクトニクス宝石(plate tectonic jewelry)」という呼び名も存在します。日本が約5億年前に沈み込み帯であったことを証明する役割も担っています。糸魚川産の翡翠は、地球上で生成された最初の翡翠なのです。
他の分野での重要性は、考古学の側面です。糸魚川市の大角地遺跡から出土した石からは、約7000年前に人類が翡翠を利用していたことが明らかになっています。これは世界的に見ても最古の翡翠(ジェダイト)を利用した例です。縄文時代から約6000年間にわたっては、翡翠製の大珠・垂飾り・勾玉などが日本全国で普及し、権威の象徴として扱われました。

3. 長い時間、広い範囲にわたって日本人の生活に関わり、
利用されていること

世界最古の翡翠利用が確認されている縄文時代から、約1200年間は空白期間があることを加味しても、約7000年もの間、日本の至るところで翡翠は使われています。国内では約10数か所の産地が存在しますが、古代遺跡から出土する翡翠は全て糸魚川産ではないかと考えられています。糸魚川翡翠は古代日本で最も広く普及した宝石であり、その価値と美しさは現代でも変わらずに輝き続けています。

4. その石の産出が現在まで継続し、野外で見学できること

希少な地下資源は価値の高さが明らかになると、採掘が活発となり枯渇してしまうことがあります。しかし糸魚川翡翠は7000年前から利用され続けているにも関わらず、現在でも自然の中で産出が絶えていません。
国指定の天然記念物に指定されたことで、小滝川や青海川上流では巨大な翡翠の岩塊を見学でき、雄大な自然の美しさの中で翡翠が育まれているのを楽しむことができます。

ヒスイ峡での見学のようす
ヒスイ峡での見学のようす

6. 野外での見学が、法律による保護などによって持続可能であること

糸魚川市の小滝川と青海川周辺は、それぞれ天然記念物として指定され、文化財保護法によって野外での見学が未来に渡って保証されています。また、糸魚川周辺の自治体や団体が一体となり、糸魚川翡翠を保護し、文化を伝える活動に取り組んでいます。

翡翠のこれまでとこれからの未来

「翡翠」の語源は中国王朝・清の時代と言われています。
ミャンマー産の緑の石をカワセミの羽の色になぞらえて、「翡翠玉」と呼び表しました。欧米ではジェードと称されていますが、硬玉(ジェダイト)と軟玉(ネフライト)を総じて「ジェード(ヒスイ)」と考えられている場合が多く、鉱物学的にも全く違う2つの石が「翡翠」として混同されているのが現状です。
近年は宝石業界だけでなく、地球科学界、考古学界でも硬玉のみを「翡翠」と呼び表す動きが活発です。軟玉はネフライトと呼び、この2つを明確に区別するように働きかけています。
糸魚川翡翠は日本人のシンボルとして定められた国石であり、私たちの感性を目に見える形として表してくれる、貴重な石です。この貴重な石をどう守り、育て、伝えていくかはこれからの私たちにかかっています。

6.ダイヤモンドに勝る靭性

石の割れにくさを示す
「靭性」が高い翡翠

天然石などの鉱物の硬さを示す値には、モース硬度(※)の他に「靭性」という尺度があります。靭性とは「粘り強さ」の値であり、強い衝撃をどのくらい受け止められるかを数値化したものです。靭性が高い石は耐久度が高く衝撃を受け流すので、割れにくい性質を持っています。
この靭性において、ダイヤモンドは7.5ですが、翡翠(ジェダイト)は8であり、ダイヤモンドに勝る粘り強さがあります。

エネルギーを受けとめる
「しなやか」な翡翠

最も一般的な硬さの基準=硬度という尺度では、ダイヤモンドが天然石の中で最も高い数値です。しかし、ダイヤモンドは炭素原子が同じ方向で結びついているため、耐性のない方向からの衝撃には驚くほど弱い部分があります。つまり靭性はそれほど強くないのです。
一方、翡翠はしなやかで壊れにくい性質を持っています。とても小さなひすい輝石の結晶が上下左右と複雑に絡み合った構造のため、衝撃に弱い方向がありません。石が持つ粘り強さは、表面の硬さとはまた違っています。強い衝撃を受けたとき立体的な構造を持っている翡翠は、周囲のエネルギーをやわらかく受けとめて石の外に流すことができるため、割れにくくなるのです。

翡翠は粒状~繊維状の微細な結晶の集合体
翡翠は粒状~繊維状の微細な結晶の集合体

わたしたちは「硬いものほど強い」イメージを頭の中で描いてしまいますが、硬ければ強いわけではありません。当たり前のことなのですが、硬いものほど柔らかさがなくなります。それは良いことばかりではなく、粘りは小さく衝撃には弱く、脆く崩れる要素も含みます。
硬さと、エネルギーを受けとめる「しなやかさ」を持つ翡翠。
様々な力を受けながらも、それらを否定することなく受けとり受け流すその姿に、古代の人々は翡翠のようなしなやかな強さを持ちたいと願いを込め、「お守り」として大事に取り扱ったのではないでしょうか。遥か彼方の昔から、翡翠は人々の生活に寄り添い、常に人の側にある力強い存在でした。

※モース硬度…鉱物の硬さを示す尺度の値のひとつ。モース硬度によって「表面をひっかいたときの傷のつきにくさ」を表すことができる。
1~10までの指数があり最高値の10を示す基準石は、金剛石の異名をもつダイヤモンド。翡翠のモース硬度はジェダイトが6.5~7、ネフライトが6~6.5の値である。モース硬度の7の基準石は石英で、ガラスや鋼鉄に傷をつけられる鉱物の硬さを示している。

7.価値ある翡翠の見分け方

天然翡翠との違い

世界中では、エンハンスメント加工(美しさを引き出すための処理)やトリートメント加工(色素を加えるなどの処理)によって、均一な色味と高い透明度・ツヤを作る処理が行われることがあります。

糸魚川翡翠は、糸魚川地域周辺の原石を所有している方から、直接石をお譲りされるほかに調達方法はなく、間に加工業者が入る余地がありません。無加工・天然ならではの魅力があり、本物であることの証明がしやすい翡翠といえます。
翡翠はとても特徴的な外見をしていますが、見慣れていない方は、外見でネフライトや加工品と確実に見分けることが非常に困難な石です。実際にたくさんの翡翠に見て触れることによって、本物が見分けられるようになってきます。

こたきでは、長年糸魚川翡翠に触れてきた、職人・赤羽可行が直接買い付けを行っておりますので、自信をもって本物の糸魚川翡翠作品のみを販売しております。

糸魚川翡翠の価値の見分け方

糸魚川翡翠の価値は、希少性によって決まります。希少価値とは「需要に対して供給が少ないもの」のことを言います。産出量が少なく人気のある石は希少価値が高く、産出量が少なくても人気の無い石は、希少価値が高いと言えません。

産出量による希少性のちがい
糸魚川翡翠の希少価値のピラミッド図

プレミアム

糸魚川地域の中でも、特定の場所でしか採れない希少な「入コン沢」と呼ばれる青い翡翠や、真白く透き通った「アイスジェード」と呼ばれる翡翠など、産出量が少ない上に人気がある翡翠です。

プレミアム

高品質

濃緑・ラベンダー・青など、多種多様な色味や模様を持つ個性的な翡翠です。こたきでは、このランクに含まれる翡翠の取り扱いが最も多く、発色・透明度・ツヤのバリエーションが豊富です。一般的に同系色の中では、宝石質が多い石が人気です。

発色、透明度、ツヤの違いとその人気度のグラフ
発色・透明度・ツヤの違いのグラフ

高品質

入門用

白や淡緑など比較的よく採れるものや、色ムラ・ツヤの無いものを丁寧に研磨加工した翡翠です。透明度は控えめですが、糸魚川翡翠本来の魅力を十分に感じていただけます。

入門用

入門用

糸魚川翡翠の色

糸魚川翡翠の魅力は、自然が生み出した複雑な色合いです。翡翠を形成するひすい輝石の結晶は、本来色を持たず、透明や白色であると言われています。そこに様々な元素が混ざり合うことで特徴的な発色が生まれます。
同じ翡翠でも一定の色はなく、濃淡や中間色などのバリエーションが無限です。


糸魚川翡翠のカラーチャート

結晶が純粋で不純物元素を含んでいない場合、翡翠は色を持ちません(透明)。最も純粋なひすい輝石で構成されるのが白翡翠です。結晶の粒子が大きく、そのサイズが不揃いの場合には、透明度が消失し真っ白な翡翠になります。反対に、結晶の粒子が小さく、ほぼ等しいサイズで形成されている場合には、透明度が高くなります。これが「アイスジェード」と呼ばれている貴重な翡翠です。

翡翠
(出典:「翡翠」 p52)

白色といっても、クリームがかった新雪のような白色や、真珠のような煌きをもった白色までさまざま。

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さらに白をベースに緑や青みを帯びたものや、黒の模様を帯びたものまで、いろいろなバリエーションがあります。

【15号・白色×新緑色・透明感良し・艶美麗】(高品質淡緑色ヒスイ)指輪

【20mm・中型太鼓型・ほんのり青・ごま塩・透明感良し・艶良し】(高品質白色ヒスイ)管玉

白翡翠は、シンプルな服装に取り入れることで周りと違ったおしゃれ感を演出できます。

シンプルな服装と白翡翠

白翡翠のペンダント

糸魚川翡翠の淡く複雑な色の魅力が最大限に感じられる、糸魚川翡翠を代表する色です。結晶に含まれる「クロム(Cr³⁺)」の影響で、その量が増すほど鮮緑色から濃緑色までになります。「鉄(Fe²⁺)」の存在も翡翠を緑に発色させる作用がありますが、その場合はくすんだ緑色になるといわれています。
作品全体に緑を帯びたものもあれば、白や黒とのマーブルになっているものもあります。

緑

淡緑

同じ緑でも、若々しい新緑をイメージさせる青緑から、ミルクにお抹茶を流し込んだような色まで様々です。その色味からは生命力が感じられます。
肌に馴染み、主張しすぎず爽やかなので、淡緑色の翡翠アクセサリーは職場でも身に着けやすい作品です。

ペンダント

和装と上品に合わせられるのも、糸魚川翡翠の淡い緑色の特徴です。

かんざし

翡翠の中でも濃いエメラルドグリーンを持ち、透明度の高いものは「琅かん(ろうかん)」と呼ばれ、品質が高く人気です。均一な発色と透明度を思い浮かべる方が多いと思いますが、そのような翡翠は外国産であることが一般的です。
糸魚川翡翠の濃い緑色は、自然をそのまま詰め込んだような内包物があるところが魅力です。
翡翠形成の過程で、結晶に含まれた「クロム(Cr³⁺)」や「鉄(Fe²⁺)」の存在によって翡翠を緑に発色させます。力強い生命力が感じられます。

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淡緑や黒緑、灰味との組み合わせや模様が入っているものも幻想的です。

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濃い緑色の翡翠は、金属と合わせたジュエリーにもぴったりです。金属加工の指輪など、小粒でも存在感があります。

金属加工の指輪1

金属加工の指輪2

「チタン(Ti⁴⁺)」が翡翠に紫の発色をもたらします。翡翠といえば緑を思い浮かべる人も多いですが、欧米では紫翡翠の人気が高まっています。
世界の翡翠の中でも特に新潟県・糸魚川のラベンダー翡翠が美しい藤色を見せるといわれています。

ラベンダー翡翠

白、黒、緑、青など様々な色を内包しているものがあります。その幻想的な色合いを見ているだけで心をきれいにして持ち主を癒してくれます。
淡い色なので、白や淡緑などと同じように日常的なアクセサリーにもぴったりですが、より上品な印象を与えます。

ラベンダー翡翠のアクセサリー

「鉄(Fe²⁺)」と「チタン(Ti⁴⁺)」によって翡翠は青色に発色します。明るいブルーからくすんだブルーまでありますが、チタンが多い場合は紫がかったブルーになります。空や雲、海などの大自然を思わせる色です。

青翡翠

小滝川の中でも特定の場所(入コン沢)でしか採れない、希少な青翡翠は「入コン沢(コン沢)」と呼ばれ、翡翠ファンの中でも特に人気の高い翡翠です。
入コン沢の特徴としては、青色と茶色が混ざったような色味をしているものが多く、渓谷のような複雑な趣があります。

青(入コン沢)

青翡翠のアクセサリーは、男女問わずカジュアルな服装にも合わせやすくおすすめです。

青翡翠の指輪

青翡翠のペンダント

黒・グレー色は、翡翠が形成されている間に発生したグラファイトの存在で、翡翠の基となった原石由来の成分といわれています。 木炭のような存在感のある黒色や、漆黒に輝く黒の中に、白や緑(青)の斑点やラインが入っているものもあり奥深さがあります。糸魚川翡翠をワイルドに持ちたいという男性にぴったりです。

黒色翡翠

シックな風合いの灰色です。グレーの中にも黒の斑模様や、緑(青)がかったものがあり、幻想的です。

灰色翡翠

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